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鹿児島地方裁判所 昭和33年(わ)28号 判決 1958年10月31日

被告人 木村清

主文

被告人を死刑に処する。

領置中の腰紐(証第一号の一、二)は没収する。

理由

一、経歴

被告人は、父木村虎之助(現在六十歳)と母木村ツタヱ(現在五十八歳)間の長男として秋田市に生れ、当時玩具類の小商や物品の行商等をしていた両親のもとに、弟進と共に育ち、秋田市の旭北小学校に入学し、成績上位で卒業し、秋田中学(旧制)に進学し、熱心に勉強していたが、三年生の頃から不良化して、自家の金や衣類を持出しては、東京、青森あたりまで家出するようになり、又女友達と遊び廻つたりして、無軌道な生活を送り、五年生に進級の際落第したので、これを機会に昭和二十二年三月退学した。その後上京して遊び廻つている内、神奈川県三崎町の潜水技術員養成所で生徒を募集していることを知り、徒食しているよりはと考えて受験の結果、昭和二十二年四月頃同所に入所し、翌年三月卒業し、直ちに三井船舶株式会社に船員として採用され働いていたが、昭和二十三年十月頃乗組んでいた船が山形県酒田港に寄港した際、酒田市新町の遊廓で偶然に以前秋田市で中学に通学していた頃交際していた斉藤蓉子(当時十六歳)が接客婦として働いているのに逢つて、思いがけない邂逅で旧交を温め、交際を続けているうち、蓉子が稼業をやめて秋田の親許に帰つたので、被告人も亦職をやめて昭和二十五年三月頃秋田市の実家に帰つて来た。その後、同年四、五月頃、秋田県庁の職員採用試験に合格し、近く採用されることになつていたが、持前の放浪癖が出て、家出をして鹿児島市に流れ着き、職業安定所の世話で同市のパン屋に働くようになつたが、二ヶ月位して店の集金を持ち逃げして、実家にたどり着いた。その間秋田県庁の方は両親から甘く口実を設けて体裁を繕つてあつたため、同年(昭和二十五年)八月一日県職員に採用された。その後、右斉藤蓉子が又秋田市の遊廓で接客婦になつていることを知り、同女を訪ね、何処かで二人だけの生活をしようと相談して、同年九月相携えて家を出て、当もなく東京、鎌倉等を遊び廻つたが、所持金も乏しくなつたので右蓉子を殺してしまおうと考え、同年九月二十六日、藤沢市の海岸に連れて行つて、同所で同女にウイスキーを多量に飲ませて酔わせた上、同日午後八時頃、同女の腰紐で同女を絞殺し、同女の心中の承諾の上殺害した旨供述して、昭和二十五年十一月二十八日、横浜地方裁判所において、嘱託殺人罪として懲役一年の宣告を受け、被告人において控訴申立をなし、同年十二月七日保釈され、迎えに来ていた父に伴われて郷里秋田に帰宅した。ところが、世間の人達が冷い目で被告人をながめているように感じられ、又、殺した蓉子に対しても深く詑びたい気持になつて苦慮の毎日を送つていたが、煩悶苦慮のあまり自暴自棄になつて、世間の人が驚くような大罪を犯してやれと考えるようになつて、金、ナイフ、細紐を予め用意して、その機会をうかがつている内、昭和二十五年十二月十七日、夕食を早目にとつて、母のすすめで母に伴れられて罪に汚れた身を清めるため、近所の鬼子母神参りに行くようになつたので、前に準備していた金、ナイフ、細紐を隠し持つて出掛けた際、途中母がローソクを買つている隙を見て逃げ出し、山形県新庄市に赴き、同日午後十一時頃、同市十日町の軽飲食店で、接客婦森谷キヨ子(当時二十三年)を相手に遊興しているうち、同女を殺害しようと思い立ち、同女に酒等飲ませた後、情交の末、同女が熟睡しているのに乗じて、翌十八日午前二時頃、所携の細紐で同女を絞殺した上、続いて刃物で該死体の外陰部乳付近を滅多斬りにして、同女の腕時計や現金を窃取して、翌十九日高岡市の警察署に出頭して右犯罪事実を申告した。この事件のため被告人は、昭和二十六年十一月二十六日山形地方裁判所において、殺人、死体損壊、窃盗罪として懲役二十年の宣告を受け、間もなくこの判決は確定して、秋田刑務所に服役中、昭和二十七年政令第百十八号の減刑令によつて懲役十五年に減刑された上、刑の執行を受けること大約六ヶ年にして、昭和三十二年七月三日、秋田刑務所で仮釈放され帰宅した。そして、この月一杯は実家で静養していて、同年八月と九月の二ヶ月間秋田市の自動車練習所に通つて運転技術を習い、同年十月に普通自動車と小型四輪車の運転免許を取り、同年十月六日から二十五日まで、秋田市の鮮魚商中田慎蔵方に、又同年十一月一日から同年十二月十日まで、秋田市の古鉄商川村英雄方に、雇われ働いていた。その後は家に居たが、弟進が急性肺炎で秋田市の病院に入院していたが退院することになり、同年十二月十三日、荷物運びの手伝いに母と共に病院に行つたところ、病院の玄関で母に「一寸そこまで行つてくる」と云つて立去り、そのまま汽車で一気に鹿児島市まで来た。鹿児島駅に着いたのが昭和三十二年十二月十五日夕方であつた。

二、犯罪事実

被告人は、鹿児島駅に着くや、途中繁華街に立寄つて、同日(昭和三十二年十二月十五日)午後十一時過頃、鹿児島市塩屋町六十二番地特殊飲食店「にこにこ」こと芝崎光雄方に行き、同店の接客婦前村アヤ子(当時二十五歳)を相手にして登楼し、翌十六日は、同女に誘われて、宮崎県都城市の同女の実家に遊びに行くことになり、二日分の花代として金四千円を前渡しして、同女と二人で同日夕方、同女の父や家族への土産として、清酒二本菓子果物等を携えて、同女の実家に赴いた。着後間まもなくして、同女の妹等を連れて市内見物に出掛けた時、期するところがあつて、都城市上町二丁目二四六三番地洋品店米村光也方において、腰紐一本(証第一号の一、二、この時は未だ切れていなかつた。)を買い求め、夕食後、同女の弟等を連れて映画見物に行き、夜の十二時頃帰つて同女の寝床に這入つて、その晩は一回情交関係を結び、翌十七日夕方、汽車で同女と二人で鹿児島駅に着き、途中映画見物をして同日午後九時頃前記飲食店「にこにこ」に帰り着いた。それから同女と二人で近所の銭湯に行き、帰りに清酒一升買求めて、同店の二階北西側三畳の同女の部屋で、すすめて同女に飲ませた。平素同女は酒は好きの方ではあつたが弱い方であつて、翌十八日午前二時五分頃には「そんなに飲ませては苦しいじやないの」と言う程同女に無理じいして飲ませて、同女を酩酊させ、その間一回情交関係をしたが、同女が熟睡するや、同女を殺害しようと考えて、同日(昭和三十二年十二月十八日)午前四時頃、前記同女の部屋において、同衾熟睡中の同女の頸部に、前々日都城市で買求めた前記の腰紐の切れた長い方(証第一号の二)を、一回巻いて後頸部で結び、更に二回巻いて頸部の左耳下方で強く結んで、即時同女を絞頸による窒息死に至らしめて殺害し、

続いて、その場で、所携の鋭利な刃物で、同女の死体の前胸部に三個の刺切創、下腹部に×形の擦過傷、外陰部において恰もこれをえぐるが如く二個の刺切創、左大腿根部に一個の刺切創等の損傷を与え、もつて右死体を損壊し、

たものである。

三、犯罪後の行動

被告人は、以上の如く犯行をなすや、同女の死体の胯間に脱糞し、同女の顔を右向きにして布団に寝かせて、死体の右側に同女の洋服や着物を細長く丸めて、恰も同衾者があるように偽装して、死体の目のあたりまで布団を覆せて、同日午前五時前頃、同女の店の人や使用人等が未だ寝静つているのを幸いに、その家を逃げ出し、タクシーで鹿児島駅に行き、同日午前七時頃同駅発の汽車に乗つた。一方前記の犯行は同日午後一時頃になつてようやく発覚して大騒ぎとなつたが、被告人は、同年十二月十九日午後九時頃大阪府警察署に自ら出頭して前記の犯行を申告した。

四、証拠(略)

五、弁護人の主張に対する判断

弁護人は、被告人は本件犯行当時心神耗弱の状態にあつた、と主張するので、これを検討してみるに、一件記録によれば、被告人は、昭和三十二年七月三日、秋田刑務所を仮出所後、本件犯行をなすまでの間においても、数人の売春婦と関係したが、その時は、いずれも何事もなく無事に過してきていること、本件被害者も、初日の昭和三十二年十二月十五日とその次の晩は、いずれも情交関係はしたが無事に過してきたこと、昭和三十二年十二月十六日夕方、絞殺するのに用うるため腰紐の丈夫なものを買求めてこれを用意して、被害者に強いて多量に飲酒せしめて、同月十八日午前四時頃、この腰紐を用いて頸部を絞めて殺害したこと、被害者を殺害するや、同女に枕をさせて顔を右向きに寝かせて、目の辺まで布団を掛け、その右側に同女の洋服や着物を取出して細長く丸めるようにして布団の中に入れて、一見すれば、恰も同衾者が居る如く偽装したこと、被害者が居た家の人達やその使用人等が未だ寝静つていた同日午前五時前頃に、密かに同家を立去つたこと、大阪府警察本部に自首したときも、予め背広上衣についていたネームを引外して出頭し、虚偽の本籍氏名年令を申告し、検察官の取調の時までこれを主張していたこと、自首のとき述べているところの、鹿児島に着いた時から犯行をなすまでの間の行動や、殺害後死体に傷をつけた模様やその傷の場所が、他の参考人の供述調書や、鑑定人城啓男の昭和三十三年一月二十八日付解剖鑑定書の記載と大体において一致すること、等が認められる、このことは、被告人が本件犯行当時、意識が明瞭であつて、是非善悪の判断も出来て、且つ、この判断に基いて行為し得る能力があつたことを窺知するに十分である。鑑定人城哲男の昭和三十三年二月二十二日付及び同年八月十八日付の各鑑定書、及び証人城哲男の供述調書の記載の見解もほぼ右と同様である。尤も、鑑定人佐藤幹正の鑑定書及び証人佐藤幹正の供述調書には、被告人は、本件犯行当時限定責任能力者であつた旨、並に、この断定も医学的立場からなされた旨、の記載がある。さればこのことが、刑法学上心神耗弱に該当するかを検討してみる必要がある、同鑑定人は、被告人は、知能は平均以上を有し、情意に著しい異常があつて、意思薄弱型、気分易変型、自己顕示型、情性欠如型の性格であつて、虐待淫乱症(サヂスムス)の持主であり、人格(個性)は偏倚で甚だ異常で精神病質者であるが、狭義の精神病者ではない、犯行当時の意識には著しい障害がなく、殺人行為そのものの認識はあり、犯罪性の認識もあつた、従つて悪いという認識はあつたと思う、と云つている、以上のことは、鑑定人城哲男の意見も大体において一致するように思われる、然るに、佐藤鑑定人は、精神病質が犯行の原因動機となつている場合は限定責任能力であると云う前提に立つて、被告人は犯行当時判断能力はあつたが、抑制力に欠陥があつたと結論されるようである。当裁判所としても、被告人の性格、精神状態が、佐藤鑑定人が謂われるとおりであると云うことは、一件記録を綜合判断してこれを認める。従つて、抑制力に多少の欠陥があつたことは否めないことと思う、併し、これが全然又は著しく欠けていたと解することには賛成できない、何となれば、被告人の犯行前後の言動については本項の冒頭において述べたとおりであつて、どの売春婦に対しても差別なく犯行を為さないことや、意識的に女に酒を飲ませて酩酊せしめて好機会を作つてなしたこと(判示の藤沢市の第一の殺人、山形県新庄市の第二の殺人の場合も相手の女を酩酊せしめてなしている)等の事実からして、被告人は前記のような性格、精神状態の持主でありながら、平素はある程度の抑制する力を有しているために抑制し、意識的に機会を作つてなしたことを窺知することができる。従つて、被告人は犯行当時、抑制能力に多少の欠陥はあつたが、それは刑事責任の限定を認めるほど著しいものでなかつたと解するが相当であると思料するからである。

されば被告人は、犯行当時心神耗弱の状態になかつたものと解するから、弁護人のこの主張は理由がない。

六、法律の適用

判示行為中、殺人の点は刑法第一九九条に、死体損壊の点は同法第一九〇条に該当し、以上は同法第四五条前段の併合罪であるから、前者について処断刑を選択する必要上、犯罪の情状を考えてみるに、本件の一件記録によれば、被告人は、経歴の部において記載した如き原因動機のもとに、第一次の藤沢市の海岸における殺人、第二次の山形県新庄市における殺人、死体損壊罪を犯したものであり、本件も仮出所後五ヶ月半振りに又第二次の犯罪と同じ犯罪を犯したものであるが、被告人が斯くまで相次いで三回に亘つて類似の犯罪を犯すようになつた原因は、被告人の先天的自閉性格に由来する病的異常性慾=虐待淫乱症=(サヂスムス)に支配されて敢行されたものであること、而して、斯る先天的な素質異常は現在医学上治癒不可能とされていること、そこで、佐藤鑑定人をして「裁判官は(云々)第二の犯罪に対し(云々)懲役二十年の刑を選ばれたのであるが、その後講和に関して恩赦の令が公布され、法は総ての例に平等に、受刑者の先天的素質などを少しも顧慮することなく実施された結果、本被告人の所定の刑期も予期に反して著しく短縮されることになり、あわれむべき本件被告人は、再びその病的本能の衝動にかられて、この度繰返して恐るべき同種の反社会的行為をなす機会を持つこととなつたものである。」と嘆かわしむる結果となつたのも、被告人をして社会に復帰せしめて自由な身になしたが為であること。若し、被告人をして再び社会に復帰し、自由な身になすならば、これまでの三例と同種同程度の第四、第五の若き女性の犠牲者を出す危険は極めて大であつて寒心に堪えないこと等認められ、且つ、被告人は反省改悛の情も顕著ではないようである。斯る情況下にある被告人に対しては、再び社会に復帰可能な刑を選択するのに躊躇しない訳にはゆかない。その他本件犯行の残忍なことや色々な事情を考えて、若き三女性の犠牲者の霊も同感であろうと考えながら、被告人に対し、殺人罪の所定刑中死刑を選択する。故に刑法第四六条第一項により他の刑を科せない。併し同条項の但書、同法第一九条第一項第二号第二項により領置中の腰紐(証第一号の一、二)は本件殺人の犯行に供し、且つ被告人以外の者に属しないからこれを没収することとし、訴訟費用は、被告人は負担能力がないことが明らかであるから刑事訴訟法第一八一条第一項但書により被告人に負担させないこととする。

以上の理由によつて主文のとおり判決する。

(裁判官 池田惟一 小出吉次 浅香恒久)

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